林東の高原から A

9月19日(続き)

フフホトを出て2,3時間もすると、車窓は一面の高原地帯に変わってくる。はるか遠くにに岩山を望むだけだ。

駅名でいえば集寧をすぎて、しばらく行った頃だろうか。なにしろ、この高原地帯は日本列島がスッポリ収まる規模

という。

 

途中で出会ったSL 途中の正襄白旗駅 

          途中出会ったSL                                    正襄白旗駅

 

 

大板に着く前の日没

大板の街の様子を少し紹介しよう。宿舎の巴林賓館の近くの市場、薈福寺(わいふくじ)、街の中心だ。

 

                大板中心部                                   薈福寺

市場

9月20日(金)

 

”遼帝国”の都・臨黄府址

大板の巴林賓館から車で遼帝国の国都・上京臨黄(本当はさんずいが付く)府址に向かう。つまり、かつての遼の

都跡に行くわけだ。

しかし、この旅行のちょっと前まで遼の都がここにあったことなど知らなかった。というより、この旅行を実質的に主

催しているH氏が神保町で「慶陵調査紀行」(田村實造著、平凡社)なる本を手に入れなければ旅行自体、実現しな

かったかもしれない。

遼帝国を簡単に説明すると唐の末期、916年に独立し、金に滅ぼされるまで約210年ほど続いた、蒙古系契丹族

の帝国。騎馬民族で仏教国でもあった。田村氏の著作はその陵墓を訪ねた紀行文だ。

というわけで、車は大板を出発した。市街を抜け林東(都跡はここにある)に向かうと、予想こえる高原風景が次々

に展開し圧倒された。その素晴らしさに、この高原を大板ではなく林東高原と呼ぶことにした。よくわからないが地

名があるから、かまわないだろう。



”遼帝国”の都・臨黄府址

下の写真は「慶陵調査紀行」(平凡社)に載っている昭和16年頃の臨黄府址だが、残念ながら今はほとんど残って

いない。わずかに首の落ちた観音像が残っている程度。しかし、南塔と北塔はみごとに修復されていた。

昭和10年代の遼都・臨黄府址

昭和10年代の遼都・臨黄府址の写真 「慶陵調査紀行」(平凡社)より

今は石碑があるのみ。道路の左側がかつての臨黄府址。

        同じく、観音像                               現在の像


  

           同じく、南搭                       現在の南塔

  

          同じく、北搭                       現在の北塔

とくに南塔は見晴らしの良い丘のに立ち、街のどこからでも見える。塔の側に立ったとき風鐸が音をたてたのが印

象的でした。

中央の丘に立つのが南塔

かつての城壁の一部は見ることが出来た。


     かつての城壁の跡

9月21日(土)

この日は大板から列車で通遼に向かう予定だったが、硬座で続きの席が確保できず、急遽、駅でガイドさんに連絡

をとってもらったところ、車はまだホテルにいる、ということで再び車で通遼に向かう事になった。

このため、昨日の林東をまた通ることになり、幸運にも再び素晴らしい高原風景を見られるようになった。

また、この日は通遼賓館に泊まることになっていたが、通遼の街そのものはあまり見るものもないという事で、夜行

列車で北京に行けないか、とまたガイドさんに無理を頼んだところ、またうまくコンパートメントの予約がとれた。

ガイドさんには迷惑をかけたが、これで北京でゆっくりする余裕が出来た。

夜、列車で通遼発、北京に向かう。

9月22日(日)

朝7:35分、北京南駅着。北京には駅が4つあるということで、この南駅は初めて。近代的な西駅と違って、なにやら

浅草のような雰囲気。駅前から出店がならび庶民的な街。ところがカメラが動かなくなり、写真を撮れないのが残念

だった。日中友好30周年で宿が思うようにとれず、陶然花園酒店泊。

ところが、ほとんど中国人専用のようなホテルだが、設備はよく、またレストランが安くおいしく、最高だった。

9月23日(月)

ついに残念ながら旅は終わり、成田へ。ところが、またまた日中友好30周年で訪れた1万5000人の日本人が大

半、この日に帰るということで空港は大混雑。オーバーブッキングとかで、飛行機を勝手に変えられ、東京の家には

夜8時ごろには着く予定が、実際には12時を過ぎていた。

我々にはとんだ日中友好30周年騒動だった。

 

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